2010年08月23日
小野小町伝説

小町の驕慢さに対する非難の思いが伝わっている京都市内の伝説と異なり、ここには心優しい伝説だけが残っていました。
小町の墓は、京都府の北部、京丹後市大宮町五十河(いかが)にありました。
高さが152センチの尖った石碑に「小野妙性大姉」と彫られていました。
晩年、天橋立をめざして旅に出た小町は福知山で
上田甚兵衛という人物に出会った。
甚兵衛の住む三重郷五十日村に来て、甚兵衛宅に身を寄せた小町が
「火」に通じる五十日の「日」の字を「河」に改めさせたところ、
火事が減り、女性は安産になり、村が平和になった‥
『妙性寺縁起』によると天橋立に向かう長尾坂で(小町を背負った坂→小野負坂→小野坂と呼ばれてるそうです)
小町は突然腹痛を起こし、上田甚兵衛が背負って帰ったが、辞世の句を残して亡くなったと伝えられています。
【辞世の句】九重の 花の都に 住まはせで
はかなや我は 三重にかくるゝ
(九重の宮中にある花の都にかつて住んだ私なのに、ついに住みおおせず、はかなくもここ・三重の里に身を隠して亡くなるのだわ)
「私の所に100夜通い続けたら、思いを遂げさせてあげる。」深草少将百夜通いは能の「通い小町」の題材にもなってますね。
お墓がある公園の周りは小町開基と伝わる妙性寺や薬師堂がありました。そば処も風情があり、とてものど越しいい食感でした。
画像は資料館【小町の舎】です。


ホールには金色の(ブロンズ製)小町像がありました。表情は、月夜を眺めているもの哀しい顔に見えたのはわたしだけかな‥。
展示資料は、撮影は自由で来年の3月になると、諸事情でどこかに移転されるそうです。
全国の小町伝説の分布図や、上田甚兵衛さんのご子孫の方が所蔵している小町の化粧椀と鏡もありました。
その中で、小町のなれの果ては哀しいものだったと思わずにいられない一枚の絵画が印象的でした。
森 徹山筆(1775〜1841)

『生あるものは必ず死して骨となって土に帰る』
九相観の思想だそうです。
お墓がある公園の周りは小町開基と伝わる妙性寺や薬師堂がありました。そば処も風情があり、とてものど越しいい食感でした。
画像は資料館【小町の舎】です。


ホールには金色の(ブロンズ製)小町像がありました。表情は、月夜を眺めているもの哀しい顔に見えたのはわたしだけかな‥。
展示資料は、撮影は自由で来年の3月になると、諸事情でどこかに移転されるそうです。
全国の小町伝説の分布図や、上田甚兵衛さんのご子孫の方が所蔵している小町の化粧椀と鏡もありました。
その中で、小町のなれの果ては哀しいものだったと思わずにいられない一枚の絵画が印象的でした。
森 徹山筆(1775〜1841)

『生あるものは必ず死して骨となって土に帰る』
九相観の思想だそうです。
Posted by 乙女椿 at 00:41│Comments(0)
│心の古里